カラフル雑記帳

昭和の雑居ビルのような彩りあるブログにしたい・・・

2011年3月11日 欧州の田舎町

たまたま仕事も勉強もなかったあの朝、8時、眠い目をこすりながらメールをチェックしていた。日本に居た父母からの

『日本に電話しないでください。私たちは全員無事です。日本の電話事情が落ち着いたらこちらから連絡します。』

という、多分海外の知人友人親族に一斉に送ったであろうメッセージに驚き、テレビを見る習慣もなかった私はネットのニュースに唖然とした。

mixiとfacebookを開くと混乱した状況の中、落ち着いて逞しく行動したり、都心が実家だからと帰宅困難の人にツイッターで呼びかけて泊めてあげたりしている友達の様子が。

ヨーロッパのテレビ報道は容赦なく、日本では放送しない目を覆いたくなる場面が多いため、UstreamでNHKばかり観ていた。新宿駅が愛おしかった。

都心から埼玉まで7時間かけて帰宅した友達から、

「いわき大好きなadeyakkoちゃんだから、もし日本に居たら金曜だったし昼抜けで福島に行ってたんじゃないかって。」

と後日、泣きながら言われた。よく、金曜昼で早退→いわき湯本2泊、なんて旅をしていた。地元で大地震や津波にあうのだって大変なのに旅先だったらどこに逃げればいいのかもわからない、足手まといになる申し訳なさでしんどかっただろうな。

                * * *   

宮藤官九郎さんが、被災地・被災者は外から見てるみたいな言葉だから嫌だ、被災地というなら日本全体じゃないか、と言ったのは至言だろう。私はその日からしばらく部屋の外にすら出たくないほど引きこもった。心の中では私は完全に被災者だった。まるで自分の実家が、祖父母の家が、流されたような気持になっていた。

私が日本生まれなのを知っている人は見つければ必ず、

「日本、大変なことになったね。本当に地震って慣れっこなの?放射性物質は大丈夫なの?あなたの友達は?」と聞くし、大学院ではイタリア出身の教授が、

「あんなカオスにおいて自分を律して暴動も起こさないのは、教育と躾の賜物なのか、国民性なのか、本当に驚きますね。自分の国の人間だったらと思うと。あ、あれ、貴女は日本出身じゃなかった?どうなんですか、今の日本は?」と振ってくるし、

私自身、状況がわからないので聞かれてもどう答えたらいいか当惑した。

同僚やクラスの人からいろいろ聞かれても、興味本位なのではと疑心暗鬼になってしまったり。

実際、仲良しの女友達の彼氏だった中国人の男子は、私には「元気になってね」とバイト先のお菓子屋さんのケーキを親切に持ってきてくれたのに、家に帰ったら津波の映像を見て笑っていた、と彼のルームメイトがショックを受けて私に知らせてきた。彼は北部の生まれだけれど、ご両親の実家は四川省の成都なので地震が起これば同じ地震国で生まれた身として私は本気で共感して痛みを分かち合っている気がしていたけれど、共感性というものは本当に個人差が大きく、心に育たない、根付かない人もいるんだと実感した。

 

もちろん、心から心配してくれる人もたくさん居て、ベトナム人、ドイツ人、カンボジア人、インド人の男友達は表に出るのさえ躊躇していた私をわざわざ迎えに来て(そうとは言わなかったけれど元気づけるために)ご飯をつくってくれたり、

イラン人の女子は道端で私に抱きついて、「どうして、あんなに良い人たちが・・・!」と人目も憚らず大泣きして「それでも日本はきっと大丈夫。本当にすごい人たちだから。日本は一番大好きな国よ。」と元気づけてくれた。まるで自分の両親のことのように号泣する彼女に圧倒され、ためらう余裕もなく、私は初めて声に出してぼろぼろ泣いた。それまでは喉に何かがきつく巻き付いたような苦しさがあった。

きっと、泣きたくても泣けない人はそれぞれの痛みがあったと思う。

それは地震や津波に近い場所でも、そうでなくても。

                * * *

ドイツ人、フランス人の同僚から猛反対されながらも私は一時帰国した。日本が恋しくて耐えられなかった。飛行機はガラガラで直行便のはずが香港でクルーの入れ替えがあった。

節電モードの成田はバルカンや東ヨーロッパの小さな空港のように暗かった。帰ってみると福島に行けるような事態でないことがわかった。定宿にしていたホテルも泊まれる状況ではなかった。何もできない東北三県と栃木・茨城アンテナショップを巡ったりした。

再び帰国したとき、定宿だったホテルが再開してすぐにいわきへ行った。傷跡はあちこちにあったけれど、地元の人は逞しく元気な姿だった。前からの知り合いも、新しく知り合った人も、いろいろ気さくに話してくれて、愚痴さえ明るく、頼りない私は「体に気を付けて、仕事頑張ってね。またおいで。」と励ましてもらった。また励まされに来たいと思った。

                * * *

最近亡くなった友達のおばあちゃんは、新宿より西に行ったことがないという下町の人で、関東大震災のことや、戦争直後の東京のことを昨日のこと鮮明に話してくれた。歩いて避難したとか、GHQの偉い人の話とか、日系人男性と同棲して甘い汁を吸ってた同僚なんていうディープな話題まで、まるで昨日のことみたいにリアルに。それでも恐怖の思い出は年月とともに薄まってしまった印象だった。【震災はまだまだ終わっていない。】そりゃどこにいたって、どういった形であれ、心に刻まれたものに【おわり】はないんだと思う。今この瞬間だって「日本はきっと大丈夫」と言ってもらった時のことを思い出すと自動的に喉のあたりからこみあげてきて視界がかすんでくる。

それでも、友達のおばあちゃんがそうだったように、恐怖や悲しみは薄くなっていくんだと思う。

薄まったあとにどれだけ共感と前向きな気持ちを持ち続けられるかが大切なのでは。

 

震災、津波、台風、水害、豪雪、猛暑、土砂崩れ、公害、噴火、降灰、原爆、原発事故・・・これだけのフルコースにたたられた国の人間だからこそ、他の国の災害に際し、寄り添ったり、アイデアを出し合ったり出来るようになりたい。